個人であるということ


 またまた間が空いてしまいました。。。言い訳っぽいけど(というより言い訳ですが)、私のパソコンはI君に言わせると限りなくゴミに近いくらい古いらしいのです。それでも研修医の時のお給料で買ったものだから愛着があって使っていたのだけど、最近は本っ当ーーーに動作が遅くて・・・・。何かやりながらパソコンをいじっていることが多かったのですが、今はそれさえ時間がもったいないくらいに遅くて・・・・。
帰国したらパソコンを買おうと思っているので、そうするともうちょっとマメになる、かも。です。


 6月下旬にL君の保育園がお休みに入ってしまい急に忙しくなって、7月は引越しをしたり、家具を探したり、日本から訪ねてきてくれた人がいたりで、何だかざわついて過ごしていたかもしれません。それでも最近お手伝いさんに来てもらうようになったので、だいぶ楽にはなったなー。

そして、昨日は私のお誕生日でした。だから今日は、また新しい気分での始まり始まり。

去年、深夜の海辺でお誕生日会に参加して、大切な友人と大きな紅い月を見つめていた時は、まさか次の歳は海外で迎えるとは思ってもみなかった。人生わからないものです。わからないだけに、自分で人生を形づくっていけるんだと思います。
そして私は心から「夢は本当に叶えることができるんだ!人生は自分で形づくっていけるものなんだ!」と思っているし、実感しているし、そう信じているのだけど、そんな風に信じられる境遇にいる私達というのは、とても幸運なんだと思います。
自分の思いを叶えてその場所に立ち上がってみたら、そんなことはとても考えられないような人達がたくさん、たくさんいるということが現実のものとしてわかったから。


こちらにきて3ヶ月。
今のところで一番自分が変わった、と思うのは、「人というのはそれぞれが違って当たり前なんだ」ということを、温度をもって肌で実感できるようになったこと。
それは言葉上は理解していたつもりだったけれど、やっぱり全然わかってはいなかった。

ここで本当に色々な人種、色々な人がいて、それぞれまったく異なるバックグラウンドの話をしていると、もう本当に「世界って何でもありなんだ」という気がしてきます。(とても漠然としていてごめんなさい)
アイデンティティとか突き詰めるとそれぞれに考えるところはあるのだろうけれど、とにかくそれぞれが「どこの国の人」という以前に、「私はこういう人」という感覚で存在していると感じるのです。そして、それがごく自然。
この感覚、日本では全然わからなかった。今までは「何となく皆一緒」という空気が当たり前だったから。

「皆が違って当たり前」という感覚。
それはとても自由で、とてもしなやかで、のびのびしていて、うまく言えないけれど、とにかく私はお腹の底からぞくぞくするほどワクワクします。もちろん日本は大好きで、そこが私のルーツでそれに私は誇りをもっているけれど、だからと言ってそれに縛られる必要もない。
違うからこその壁やぶつかりあい、認めあいがあって、人はそうやって生きているんだなあ、社会ってそういうものなんだなあ、と思います。

新しく歳を重ねた日、私も人種とかとは関係なく「私」という存在になっていきたいなあ、と思います。