『人は本当は、誰かと触れ合いたい』

 先日”クラッシュ”を観ました。アカデミー作品賞をとった、あの作品です。
      
 何と言うか・・・・
決して、見終わった後にすっきりする、とか楽しい気分になる、といったタイプの映画ではありません。でもすごく見応えはあります。自分の心の片隅にある淀んだ小池に大小の小枝や石が投げ込まれて、心に様々な波紋が広がっていく。そんな映画です。


 人種差別というのは、正直日本以外に住んだことのない私にはピンと来ません。ただこの映画では人種差別を入り口として、人間そのものを描いている気がします。差別自体に関しては否定もせず、肯定もせず、ただ日常の現実として淡々と描いているだけ。アメリカは広いし地域によって格差はあるのでしょうが、実際のところどうなのだろう・・・と考えてしまいました。これはひとつの切り口でしかないでしょうが、現実的に差別がこんなに横行しているのならば、結構つらいな、と。だって、私達はアジア人。島国日本という安全な箱舟を出たら、白人至上主義の社会では卑下される(ことがある)立場にあるのだ・・・ということは、ヨーロッパやアジアへの旅行中の何回かのエピソードで体験済み。もちろんそうでない人の方が多かったので、心配し過ぎでしょ、と我ながら思いますが。でもそういう現実も、忘れてはダメですよね。(というか、時々嫌でも思い知らされるわけですが)

 もうひとつ恐怖感さえ感じたのは、アメリカ社会における銃の存在。人を簡単に傷つけることのできる物がどれほど一般人にも浸透しているのか・・・・と、思わずアメリカの銃規制法などを調べてしまったくらい。長くなるので、ここでは書きませんが。。。車も危険度的には同じくらいですが、作られている目的が違いますもん。とにかく、銃は嫌だなあ。自分だって運が悪ければ、「なんだこのアジア人め。bang!」とか撃たれて、飲み終わった空き缶みたいにドブ川に捨てられてしまうかもしれないわけでしょ?私の人生とか、周りの大切な人達のことなんかお構いなしに。むー、そんなのごめんです。
そんなことを言っていると、結局家に鍵を掛けて閉じこもって一生過ごすしかなくなってしまうのでどうしようもないですが・・・(東京だって、最近は物騒ですものね)でも「だから日本から出なければいいのに」なんて言うのは、私の母親の台詞の中で大嫌いな部類に入るもののひとつ。そんな姿勢は、いけないいけない!!無知からくる想像力と、それに基づいた判断なんて、本当に愚かしいから。私は多少傷ついたとしても、自分の目で見て、肌で感じて、心で考えて、自分で判断していきたいの。
          
 でもこの作品には、救いもあります。結局どの人も根っからの悪人ではなくて、根っからの善人でもなくて、ただ、自分の人生をより良く生きたいともがいているだけ。その過程でぶつかりあって、傷つけあっているだけなのです。切ない。でも誰のせいとも言えない。それでもどんな人も、自分の家族や大切とわかった人に向ける瞳は、本当に深く深く暖かい愛情に満ち溢れています。それが、救い。

 どんな人も愛そうよ・・・なんてことは無理。博愛主義でいこう、なんてきれい事も言いません。でも、無知や恐怖心から人とぶつかって不幸な結果にならないためには、まず対話して相手を知ることが重要ではないかしら。そう思いました。これは決してアメリカ社会だけの話ではなくて、自分の身近でも言えることだと思う。レベルの低い例えですが、高校生の時「コギャルをやっているような子は怖い」と、集団だと怖いイメージが会った子も、個人個人で話してみると結構いい子が多かった、そんな感じです。それがもっとグローバルに広がっていったら、何だかいい気がしません?

 ちなみに、この映画におけるアジア人の描き方は微妙です。。。。肌の色が濃い人達には結構思い入れ?気遣い?と入れている感じがするのですが、所詮アジア人の認識はこれくらいなのかな、と。うーん、何とも言えません。あと、カメラワークは結構好きです。
観た後に何とも不安定な気持ちになりますが、それは決して気持ちの悪いものではありません。”クラッシュ”は、いまだに私の心にさざ波を残しています。