袖振り合うも

 多生の縁・・・と申します。私は仏教徒ではないけれど、この『縁』・・・『めぐり合わせ』とでも言いましょうか、そういうのはきっとある。そう思っています。人もそう。物事もそう。

 
 特にそう思ったのは、兄の結婚式に出てからです。
 兄のお嫁さん、私の義姉となる人は、趣味といい、生活スタンスといい、聞けば聞くほど兄にぴったりの人!!こんなに虫がいいほどぴったりで、その上美人さんでもある彼女と出会えるなんて、(兄にはちょっぴり失礼ですが)私達家族にしてみたら心底驚きだったのです。
なぜかと言うと、兄は文句なしにどこへでも行けるような頭脳と学歴を持っていますが、ちょっぴり働いただけで会社勤めはすっぱり辞めてしまい、ずっと大学から夢中だった空手の道で生きる事を選んでいたのです。今でこそ都内の道場の館長を任されるくらいになっていますが、初めの頃なんて、もちろんお給料なんか桁違い。社会的な保障だって桁違い。さらに言えば女性と出会える機会だってほとんどゼロに等しいのではないか・・・ 兄にしてみれば余計なお世話ですが(笑)家族の誰もがそう思っていたはずです。
それでも兄は「親の期待に沿わないのは申し訳ないけれど、でもやっぱり自分は空手をやりたいから。」と自らの手でその選択をし、貫いてきました。貫く、なんて悲痛な言い方をしなくても、楽しいからそれしか考えられない、という感じです。両親も初めはびっくりしたと思うのですが、まあ
「もう大人だし、人に迷惑をかけないであまり危険でなければ、一人で生きていってくれるならば何でもいいわ」
という親でもあるので、言葉にしない心配はそれこそ筆舌に尽くせぬほどあったでしょうが、本人にはたいしてうるさくも言わなかったと思います。そして今やその空手のおかげで、周りがびっくりするほど素敵な彼女と家庭を持つまでに至ったわけです。いや〜人生って本当にうまくできてる!!!
兄と義姉は袖振り合うところの縁ではないわけですが、きっとご縁があったのでしょう。そしてそれは、兄が自分に対して素直な、そして周りから見れば勇気ある選択をしていたことによる、いい巡り合わせなのかなあ・・・って思いました。格闘家体型の兄は本人も笑ってしまうほどタキシードがあまり似合わなかったのですが、でも兄が照れながらも幸せに溢れている姿は、家族としてとってもとっても嬉しいです。これからもずっと幸せでいて欲しい・・・そう思わずにはいられませんでした♪


 例えば自分がとてもいい状態にある時。そういう時って、なぜかいい話が巡ってきたり、すごく印象的な出会いがあったり、難しい点滴も一発で入ったり、感動的に素敵な物が手に入ったり、自分を伸ばしてくれるようなかけがいのない機会に恵まれたりします。
逆に何だか自分がいけてないな。。。と思う時。そういう時っていつも上手くいく事も上手くいかなかったり、注意していても外す時にコンタクトがどこかへすっ飛んで失踪したり、どうも苦手な人ばかり外来へ来たり、野菜にカビが生えてたり、嫌なことが重なったりします。
マーク・トウェインの『不思議な少年』ではないけれど、人生のイベントってやっぱりどんどん繋がっているのかな、と思うのです。それを『運命』と呼ぶのかどうかは別として。(読んだのは遥か昔ですが、ここのところは、私「そうそう」って同意できなかったの。) いい時は、そのいい影響がますますいい事を呼び込んでくれる。逆に嫌なことも吹き溜まりみたいにどんどん溜まってしまう。そしてどちらの循環にしろ、そのきっかけを作っているのは自分なんじゃないかしら・・・と思います。
嫌な時ってどうしてもその原因を周りのせいにしがちなのですが、「これは自分の何かがいけなくて、そのせいでこんな風になっているのかな」と思ってみると、余裕がなくて大したことではない事を大・大問題みたいに感じたり、周りにも自分に対しても全く優しくなれない自分を見つけたりします。 そこで
「こんな事にイライラできるなんて、自分はまだ悩むほどの余裕があるんじゃないか。」
「あの人のお陰で、自分の中の膿がでてきているんじゃないか。」
と思うと、意外とすっきりしてその後スムーズに進んだりします。そう、いい巡り合わせの方へ。


 何だか『縁』とはずれてしまいました。とりあえず少しずつでも、いい巡り合わせに自分をもって行きたい。。。そういう事です。
ああ、でも『ご縁』は大切にしたいと本当に思います。60億人も人がいる中で自分が出会う人達ってほんのほんの一握りにも満たないくらいですから。その中で出会う人というのは、やはり何かしらの『ご縁』があるのではないかしら。いい人でも苦手な人でも、それってかなり貴重ですよね。顔を合わせている人も、インターネット上の出会いでも、縁のある方々は大切にしてたい。そう思っているのよ。