『手に入れない』という贅沢

 私はいわゆる『高級ブランド』品を持っていなかった。ヴィトンとか、シャネルとか、プラダとか、エルメスとか。雑誌の巻頭の方に、同じ人間とは思えないほど美しいモデルさんの華やかな広告が載っている、そのあたりね。働いている今となっては、それらを手に入れようと思えば手に入れるのは簡単。でもなぜ今だに私が『高級ブランド』品を持っていなかったのかと言うと、単純に、それが自分に似合わないと思うから。あとは、「ブランド名に頼る」ことが大嫌いな母の影響も強いのかもしれません。


 高校生の頃、世はバブルの時代だった。それが関係あるのかわからないけれど、とにかく周りの同級生もどっとブランド品を持つようになった。学年の中でもお洒落な子達はみんなプラダを持っていて、同じ年なのにひときわ大人っぽく見えた。「同じ物を持っている」ということで、仲間意識もますます強くなっているように思えた。
何となく私も、そういった『記号』を持つことに憧れた。でも母に「みんなが持っているからこれが欲しい」という理由でお願いしても、それを聞き入れてもらえることはほとんどなかったように思う。
『みんなが持っていると言うけれど、あなた自身はどう思っているの?みんなが持っていなくても、あなたはそれが自分に似合うから一人でも欲しいと思うの?それならば買ってあげるけれどどう?』
母はきっと、私達は周りに流されずに自分の頭で考え、自分の価値観を持つ人になって欲しかったのかな。とにかく「みんなが持っているから」という理由には小さい頃から厳しかったと思う。そしてそう言われて考えると、大体私もそこまで欲しいとは思っていなかった。高校生の、ソニプラが大好きで、サザビーやレスポのような明るくて、スポーティで可愛い物が好みだった私には、ヴィトンは何だか重くておばさんぽいデザインに見えたし、プラダのごくシンプルなデザインは何だか地味でつまらなくて、あまり素敵に思えなかった。みんなは本当にこれが魅力的に見えるのかなあ・・・。だとしたら、なぜ私はこんなに子供っぽいのかなあ・・・と、何だか自分がとても子供で、つまらない子に思えて仕方がなかった。
ただ一方で「みんなが持つから持つ、なんて理由はダサイ」と自分でも思っていたりする部分もあったので、結局まあいいや、と落ち着いていた。女子高に於いて『記号』を持つことは意外と重要なので、時々「やっぱり欲しいかも。。」と気持ちは揺れながらも、お気に入りの、アニエスbの赤いお財布を持ち続けた。(ただしラルフ・ローレンの紺のVネックセーターは別!!これはみんなと同じように買って、有頂天だった。当時はLサイズのこのセーターを、スカートを短くしたセーラー服の上からダポッと着るのが世界で一番可愛いファッションだと思っていたので! 笑)

 こういった小さい積み重ねから私は、『自分は本当に欲しいのか』『これは自分に似合っているのか』『自分と物のつり合いはどうか』みたいなことを常に考えるようになったのだと思う。
 
 しばらくして『記号』の存在は必要なくなってブランド物を『そのもの』として見る目が多少できてくると、ますますそれらは自分に不釣合いなことがわかった。一流の品というのは、決して優しくないのです。ユニクロや無印のように、誰にでも似合うものではないのです。持つ人その人の人間の存在感が確立していないと、歴史があり、丁寧な仕事をされている素晴らしい物に負けてしまう。一流のブランド品は一流の人か、一流に近づこうとしている人でないと似合わないのだ、と強く感じました。だから「このデザインは若い人向きだから。」と母から譲られたエルメスのスカーフも、まだ私には巻くことができずに時々手にとっては眺めるだけ。たった一枚のスカーフだけど、この馬具商から興った誇り高いブランドの物を身につけても、きっとまだ私は負けてしまう・・・と分かっているから。こういった物を身につけるには、人間を全体的に底上げしないと釣り合いがとれない、と思うから。そうでなければ、ブランドのことも理解せずに、何も考えないでただ『記号』として持っているのは、それぞれ歴史のあるブランドに対しても失礼だと思ってしまうから。
 そんな風に考えているので、伸びたジャージとサンダルでコンビニに来るような若い子がお財布だけはヴィトン、なんて持っているのは、滑稽過ぎて私としてはあり得ない。ベンツが100円ショップに停まっているのもあり得ない。やっぱりベンツやマセラティに乗るような人は、日々紀伊国屋にでも行って欲しいのです。100円ショップに来たいならもっと庶民的な車で来るとか、自転車で来るとかして欲しいのです。もちろん勝手に私がそう思うだけだから、文句は言わないけれど。私の考え方、古いのかもしれないし。笑
あとは、「これを持っていれば自分が高く見えるかも。。」なんてあさましい期待を持ってブランド品を持つこともあり得ない。いい物に囲まれる環境を作ることは自分を育ててくれるので大切だと思うけれど、やっぱりバランスの限度があると思うから。物の力に頼って自分を高く見せようとすると、結局はせっかくのいい物も何だか色褪せてしまって、両方素敵に見えないことが多い気がします。常に『分相応より少し上』を目指すくらいがいいんじゃないかな。誰かがやっている分には別にいいですよ。ただ自分はぜったいやらないでしょう・・・ということ。


 私が一流ブランド品を欲しいと思えるのは、きっとそれが似合うようになってから。40代くらいになっているんじゃないかな・・・と自分では思っている。でもそうやってその物の価値に共鳴できて「私にはこれが似合う。」と思えるようになったら、私は絶対にパリやミラノの、そのブランドのお店に買いに行くの。それで白い手袋をした店員さんから、大切に大切にバッグを渡してもらうの。それくらい、私は一流ブランドという物に夢を持っている。それまではじっくりじっくり、自分を育てていきたいの。いつになるのか、何が似合うようになるのか、それは先のお楽しみ!
何でもすぐに手に入ってしまう今だけど、じっと温めていく『手に入れない』という贅沢もあるのではないかしらん。これも贅沢です、きっと。(と言うか、『手に入れられない』んだけどさー 笑)