贈る言葉

 うーん、ランカウイの旅行日記がなかなか進みません〜。まあ追々アップしていきますね。


 10月は母方のおばあちゃまの米寿のお祝いをしました。数え年で米寿です。
急な計画だったらしく「どうせ忙しいでしょうから。」とこちらの予定も聞いてくれず、案の定私が行けない日だったので悔しくて、悲しくて、私はポロポロ泣けてしまいました。私だっておばあちゃまにお祝いを言いたいのに!生きていてくれて嬉しいよって言いたいのに!結局は会いに行ったのですが、無理をしてでも行って本当によかった!!
私にとって、このおばあちゃまは特別です。
なぜかというと、このおばあちゃまが私の名前をつけてくれたのです。
小さい頃は、私の年代にしてはハイカラでみんなと違うのが恥ずかしくて、私は自分の名前が嫌いでした。でも大きくなるにつれて必ず覚えてもらえるこの響きが段々好きになり、今では自分の名前が大好きです。そしていい名前をつけてくれたおばあちゃまにも、とっても感謝しているの。私の両親は私が生まれた時、お庭にたくさん咲いていたから・・・・と『ゆりこ』という名前にしようと思っていたらしいので、おばあちゃまがいなかったら私は今頃『ゆりこ』という人生を歩んでいたわけで。両親には悪いけど、今の名前の方が好きだなー!

改めて親戚が集まると、あの叔父さんもこの従兄弟ももちろん私も、おばあちゃまがいなかったらこの世にいなかったんだなあ。。。。なんて思うととっても不思議な気持ちになりました。今ではあんなに小さいおばあちゃまなのにね。


 私の科ではそう多くはないけれど、それでも救急などで若い人からお年寄りまで色々な人の死に遭遇すると、人間『終わり』というものはかならず誰にでもやってくるんだ・・・・と実感します。それは徐々にかもしれないし、急にかもしれない。いつなのか、どんな形なのか、それは誰にもわからない。
見ていて特に胸が痛いのは、事故で急に逝ってしまう場合。朝普通に出かけて行って夜また当然会えると思っていた人が、急にいなくなってしまうのだもの。永遠に。見ている方もしばらく立ち直れないくらい、本当に本当に辛いです。あと心からやるせないのが、高齢者の自殺とか。。。
そうやって「いつ終わりが来るかわからない」と感じるせいでしょうか、私は思ったこと、感謝したことはどんどん相手に伝えなきゃと思っている。私がここにいるうちに、相手がそこにいるうちに。私はあなたがいてくれてこんなに嬉しいよ、こんなに幸せだよ、ありがとうって伝えたいと思っている。いくら思っていたって、伝えなくてはわからないこともあるもの。例え相手の記憶に残らなくても、感謝の気持ちや幸せな気持ちはどんどんどんどん伝えたい。「あの時言っておけばよかった」なんてとり返しのつかない後悔はしたくない。
私、終わりの事を意識しながら生きているなんて、ちょっと考えすぎかなあ。それで時々ものすごく怖くなったり、滅茶苦茶神様に感謝したくなったりするのです。でも怖い時も、決して消極的になっている訳ではないんですよ。常に『今が期間限定』みたいな感じなのかもしれない。どちらにしろ、贈る言葉は決して惜しみたくはない。

 だから今回も、直接おばあちゃまに会えて本当によかった。手紙もいいけれど、目を見て、手を握って直接言う言葉の方がより体温があると思うから。おばあちゃまが忘れてしまっても、その時だけでも「孫に会えてよかった」と思ってもらえればそれでいい。
という訳で私の周りの方々、私が何かしつこく言っていても「うるさいなあ」と言わず聞いて下さいね。笑